ゲイのたわ言と性生活

性行為の記録

ゲイに生まれて思うこと

世間的にはゲイと聞くと、某女装タレントのようないわゆるオネエの方々であったり、またはハードゲイなどと揶揄されるような筋骨隆々で短髪ヒゲマッチョな過剰に男性的なゲイの方々をイメージする人が多いかもしれませんが、例えば僕のように、ゲイであることを周囲に巧妙に隠しつつ、普段はごく標準的な男のように振舞ってノンケ中心の社会に同化を果たし、目立たないようにそれなりの社会生活を送っている人も大勢います。(統計には表れないのでその人口を把握するのは困難ですが、僕の経験に照らせば、カムアウトすることを好まないこうした「隠れた」ゲイの人々の数は相当多いと思います)

既婚者で子持ちパパのゲイの人とも普通に遭遇しますし、誰が見てもリア充ノンケにしか見えない超イケメンのゲイの方も大勢います。見た目でゲイかノンケかを判断するのは間違いなく不可能です。

そのような「隠れた」ゲイとして、親友や家族にも本音を隠しつつ仮面をかぶって生きざるを得ないことはたしかに不幸なことかもしれませんが、自分はむしろゲイとして生まれてよかったと思っています。

それはなぜなら、ゲイに生まれたことで、この社会というものを少しばかりは相対化できる視点を持てたから。要するに、社会というものは、生殖を通じて人間が世代を重ねてゆく再生産のサイクルを基盤としており、生まれながらにしてそこからいわばドロップアウトしているゲイという存在にとっては、社会というものが必ずしも自明のものではないということです。

僕は子供の頃、ノンケの友人が「将来は結婚して子供を作って幸せな家庭を築きたい」というありがちな夢を語る度に、自分にはそういった社会を生きる人間にとっての人生の動機がすっぽり欠けていることを否応なく思い知らされました。自分には夢がない、欲望がない(性欲はあるけど、いわゆる世間的な欲望には結びつかない)。

ノンケの男性にとっては、「彼女が欲しい」「女性とセックスしたい」という自然的な欲求がそのまま社会の仕組みと一致していて、それは当然のこと、人間が生殖を通じて世代を繋いでいくためにはごくごく当然のことなんだけど、僕にはこの当たり前が当たり前ではなくて、小学4年生の頃に、社会から自分がドロップアウトしているという感覚を意識するようになりました。(クラスの男友達が女のエロ話をしはじめた頃。皆がなぜそこまで女性のおっぱいに執着するのか僕には理解できなかった。自分もいつかは女性のおっぱいが好きになる日が訪れるのだろうかと思っていた。自分がゲイだと確信したのは中二の初夢精の時で、同級生の少年と裸で抱き合う夢を見て目覚めたらパンツの中がドロドロだった。自分はやっぱり男が好きなんだという事実を受け入れざるを得なくなった。)

親の期待に応えるべく受験勉強を頑張って志望校に受かることで社会のレールに乗りつつも、親には言えない次元で根本的に社会のレールを踏み外していることは自覚していました。

でも、この種の疎外の感覚を持っていたからこそ、理解できたこともたくさんありました。特に、自分が自明の前提として受け入れていることへの懐疑の精神と、自分とはまた違う意味で既存の秩序からドロップアウトしている人々やそれに準ずる立場の弱い人々、自分より不運な人々への思いやりの気持ちなど、子供の頃に手にすることができたのは幸運なことでした。

もし自分がゲイに生まれてなかったら、いい大学出ていい会社入って美人の嫁さんもらって子供作って出世していわゆる「勝ち組」になるという、ごく標準的な夢を抱く人間になっていたかもしれません。それはそれで社会にとっては良いことだし、本人も幸せだったのかもしれないが、たぶん、他人には優しい人間にはなれなかったように思います。人間関係をすべて敵対と競争に還元して他人を「負け組」呼ばわりすることで自尊心の満足、快楽を得るようなタイプの人間になっていたかもしれません。

ゲイに生まれてよかったことは、そうならなかったこと、比較的優しい人間になれたという単純で些細なことに尽きます。政治的には、社会の矛盾を見て知らぬふりする頑迷な保守にはならず、程よい(?)中道リベラルあたりに軟着陸できたのもゲイに生まれたおかげ。基本的には、僕は左翼でありたいと思っています。とは言ってもいまだに、時には社会を呪ったり、またある時には社会に生きる人間の営みをかけがえのないものだと感じたり、気分次第で揺れますが。

最後にカミングアウトについて。ゲイであることを隠して生きるのはなかなか面倒なことです。一番疲れることといえば、他人には決して打ち明けることのできない根本的な嘘を抱えているため、友人と腹を割って話をすることがまったくできないことです。例えば、会社のノンケ同僚や先輩・後輩との飲み会の席などでは、恋愛や結婚の話や、ノンケの性欲に基づいた下ネタも当然出ますが、僕はこれらに乗ることができない。できるのはせいぜい乗ったフリをすることだけ。これが辛いし面倒です。ゲイがノンケ中心の社会で生きるとはこういうことなのだと痛感します。

カムアウトはせずに仮面をかぶって生きるのを幸せとする僕のようなゲイの立場はあまりにも悲観的すぎるのかもしれません。しかし僕としては、やはり同性愛者は、「自然な」ノンケ男女が営む人間の再生産のサイクルには参加できない以上、社会から疎外されざるを得ないことは諦めるしかないと思っています。

でも、このサイクルから生まれながらに疎外されていることのおかげで、ある意味、逆に自由を与えられているともいえるわけで、社会のしがらみから比較的自由なゲイとして善く生き、自分を育ててくれたこの社会を生きる人々への恩返しをすることだって可能だと思っています。